【講演概要】
■長崎の被差別部落の歴史
大村純忠はキリシタン大名で、1580年に長崎6町と茂木をイエズス会に寄進します。貿易するときに、自分もキリシタンだと言うとスムーズにいったとも言われて、長崎の町全体がキリシタンの町だったと言われています。被差別部落にも宣教師が足を運んで、そこに礼拝所が作られていきます。
しかし禁教令が出て250年、幕末頃には対立の関係になっていきます。初めの頃は、キリシタンの処刑の仕事を拒んだ皮屋町の姿が伝えられています。皮屋町の人たちは履物を中心とした皮革産業に従事すると同時に、罪を犯した人の捕縛、処刑などもさせられていました。
「町全体がキリシタン」と言いましたが、禁教令が出されてからほとんどが棄教しています。現在の長崎駅周辺が商人の町で、北部の平和公園や浦上天主堂がある農村地帯では、禁教の中でキリシタン信仰が守られていきました。江戸時代、皮屋町は2度移転させられていますが、商人の町とキリシタンが住む農村、その間にキリシタンを取り締まる側の、警察の手下みたいな仕事をしている皮屋町という構図ができます。
年表に「1790(寛政2)浦上1番崩れ、19名が捕らえられるが放免」「1842(天保13)浦上2番崩れ」「1856(安政3)浦上3番崩れ、15名が投獄、多くが獄死する」とあります。「崩れ」とはキリシタンであることが明るみになることです。1867(慶応3)年には「浦上4番崩れ、「えた」「ひにん」捕吏として動員される」ということで大きな衝突がおきます。そして1868(明治1)、1869(明治2)年、2度にわたって浦上の信徒が検挙され、3400名余りが村一斉の総流罪、家族もバラバラに全国に離散させられます。5年余り経ってやっと解放され浦上の地に戻ってこられましたが、500〜600人の人たちが旅先で亡くなっています。この4番崩れのときの抗争のおかげで、隠れキリシタンをずっと守ってきた人たちの中では、被差別部落の人たちは野蛮で乱暴だという話だけが残って、ずっと確執が残されていくというような時代がありました。
一方、浦上の被差別部落の人たちは部落改善運動を進め、全国水平社創立から6年後、1928年には長崎県水平社も創立されます。日清・日露戦争時の軍需、第1次世界大戦時のロシアからの軍靴注文などで、上海に支店を出すほど財をなしていたと言われます。ロシア革命、世界恐慌などで低迷し、土地を手放していくという時が続き、1945年に原子爆弾が落とされるというのが、おおまかな流れです。
爆心地は市内の北にある松山町。4番崩れで総流罪になり帰ってきた人たちが建てた浦上天主堂から約500m、皮屋町の人たちが移り住んできた浦上町から1.2qです。当時、浦上町は900人くらいの人がいましたが、155人が即死、年内に亡くなった人が140人、生死不明の人を合わせると約半数の人が亡くなっています。浦上のキリシタンの人たちは12000人、その内9000人の人たちが亡くなりました。
昔は「変な宗教を信仰しよったりするけんが、あそこに原爆が落ちた」と言われていたそうです。キリシタンに対する差別、蔑視が残っていたと言われています。
■戦後の解放運動
浦上の被差別部落は、貧しさの中で土地を手放していきました。部落の人たちは職を求めて大阪や福岡などに離散し、残った人たちが「郷土親興会」を作ります。主な仕事はお墓の管理と、離散した人たちとの連絡を取ることです。その会を母体として、長崎県連の立ち上げが行われます。
部落産業もほぼ解体され、新しい人たちが移住し混住が進んでいく中で、1969年に同和対策事業特別措置法が施行されて、全国の被差別部落の実態調査が行われます。そのとき長崎県は、「(県内の)被差別部落はもう解体された」と国に報告しています。
ところが、1971年に長崎市が開港400年を記念して出した『長崎図録』の中に、「穢多」「非人」と書かれている古地図がそのまま出されるという事件が起こります。この問題を追及したのが、後に解放同盟長崎県連合会初代委員長になる磯本恒信さんです。「原爆で部落はなくなった。差別もない」という行政に対して、「私がそこの出身なんだ!俺が部落民なんだ!これでも部落の人はいないというのか」と叫んだ、と言われています。
同時期に差別事件も起きる中、磯本さんを中心に取り組みがなされます。郷土親興会の人たちに働きかけ、長崎支部が1976年に結成されます。まず浦上の町に戻ってきたいという人たちが住む住居(市営住宅)の建設を長崎市に呼びかけ、住宅が1979年に完成します。
長崎には未指定地区も含めると約60か所の被差別部落があります。ほとんどの部落をまわったそうですが、「そっとしておいてほしい」という声が多かったといいます。5つ支部がないと県連ができないという中央本部の規定がありますので、佐世保、島原、平戸に1つずつ、長崎に2つ支部をつくり、長崎支部結成から10年経って県連ができました。
僕は1979年7月生まれで、アパート(市営住宅)ができたのが同年6月。僕の父親は元々、磯本さんが書記長をしていた地区労で書記をしていて、「一緒にやろう」ということで運動に参画していきました。それで生後2ヵ月で僕もその運動の拠点となるアパートに住むようになります。まわりの同世代の子どもたちと一緒に小学校、解放子ども会に通っていました。部落問題だけでなくいろんな問題を勉強し、平和学習にも取り組み、アパートのおじいちゃん、おばあちゃんたちに昔の差別の話を聞いたり、原爆の話を聞いたりしました。
小学校高学年くらいの時に、「懐くんは出身じゃないらしいよ」みたいな話をされて、自分はずっと出身だと思って子ども会で勉強してきたのに、「えっ?出身じゃないの?」と思って逆にショックを受けた記憶がありますが、まあどちらでもいいかというのが今のスタンスで、自分たちが決める話ではないし、と、隔たりなく、本当に仲良く一緒に活動してきています。
■青年の実態とアイデンティティ
同世代の青年が最近抱える悩みということが、自分が部落出身だということをどう相手に伝えればいいのかということです。今、積極的に自分が部落出身だということを言って運動をしている青年がたくさん出てきていることはすごく大切なことだと思うのですが、言えない青年のほうが大多数を占めるんじゃないかなと思います。「みんなで、どういうふうに説明していいか、考えよう」と話しています。
また今、「部落問題についてどう教えるのかが難しい」と子ども会の指導に関わってくれる先生がよく言われるます。他の子ども会とは違うし、学童とも違う「解放子ども会」の中で一緒に勉強していくんだから、部落問題も勉強してほしいというのが僕たち青年の世代が願うところですが、僕たちもどうやって子どもに教えていいのかわからないということで、自分たちが子ども会のときにどういうことをやっていたかというのを自分たちから話をしていこう、保護者の人たちにも聞いてもらおうというようなことを、今、運営委員会という形で同和推進教員と支部、青年部で話し合いを進めています。(了)
■宮崎懐良 (みやざきよりなが) ■部落解放同盟長崎県連合会書記長 |
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